福島芸術講 Fukushima Association for the Arts

経済産業省 令和5年度
「地域経済政策推進事業費補助金
(芸術家の中期滞在制作支援事業)」

福島芸術講について

開沼博|社会学者

なぜいま福島において「芸術講」なるものを構想するのか。
2つの前提を置きながら、その始点を見定めたい。

1つ目の前提は復興の再考だ。
戦後復興にせよ、文芸復興にせよ、「復興」とは、時代の閉塞と先行きの不可視の中に生まれるものだった。
たしかに、3.11からの復興は閉塞と不可視との戦いだったし、いまもそうであり続けている。それが震災と原発事故によるものだったことは疑いようがない。
ただ、その閉塞・不可視の原因のすべてが3.11によるものだったのかというと、それはまた違うだろう。そもそも、3.11前から社会には閉塞・不可視は存在したし、いまもそれは続いている。つまりその「復興」は3.11があろうとなかろうと、必要だったのだろうし、いまも必要とされている。

ただ、多くの人がその復興の現状に煮えきらなさを感じているのだとすれば、それは、その終点の見え無さに対してだろう。戦後復興も文芸復興もそれが生み出したものがあった。一方この復興には、ここから何が生み出されたのかよく分からないところがある。「あの惨劇があってこそ、この物語をいま語れるんだ」と言えるなにか、の無さ。

3.11からの復興には、"Reconstruction"や"Revitalization"という訳語があてられてきた。つまり再構築や蘇生だ。
既成の秩序が、非連続的に再構築や蘇生されるきっかけとなるには何が必要か。歴史をたどれば、そこにあったのはカタストロフィ(大惨事)と祭(まつり)だった。当然、両者は相反するものにも見える。前者が向こうからやってくるもの、後者がこちらから能動的に作っていくもの、という意味において。
ただ、両者は表裏一体でもある。ともに時間・空間的秩序を壊し、固定化・陳腐化したものを打破する機能をもつ故に。
カタストロフィや祭の中で、古きものが新しきものへと再構築、蘇生される。そこには不安と絶望とが入り乱れ、未来に希望が託される。その点でカタストロフィたる3.11からの復興は、現代における1つの祭だった。被災地域においてその自治体規模に見合わないくらいに催事が頻繁に行われ続けている現実も、国家レベルでも前代未聞の予算規模・行政機構の動きもそれを象徴する。

しかし、それだけでは足りない。終点が見えない。
この機能不全を引き起こしているように見える復興≒祭といかに対峙すべきか。

ここで一歩引いて現在を見る必要がある。それは、現代における「祭的なるもの」一般の機能不全だ。
本来、旧弊(例えば、自ずと年長者の下に年少者が従うような、地域の内部の慣習が排他性を持つような、つまり、そこに立ち現れ続ける時間・空間的秩序)を撹乱するはずだった祭は、いま、旧弊を維持・悪化させる象徴となっている。
例えば、五輪も芸能も、メディアイベント・ネット炎上も、音楽フェスやアートプロジェクトも。「なんでそんなことやるんだ」「誰が悪い、あそこに陰謀がある」「カネや利権・イデオロギーがどうだ」と。

かねてより「お祭り騒ぎ」という慣用句がネガティブな意味で用いられてきたことを持ち出すまでもなく、祭的なるもの自体が社会において全肯定されるべきものでもなかったことは改めて説明する必要はない。ただ、それは全否定されるべきものでもなかった。正負両側面があってこそ成立するものだったし、そこに参加した者の清濁併せ呑む寛容さがあってこそ成立するものだった。ただ、事実としてその成立自体が困難になっている。これが祭的なるものの機能不全の根本にある。ここに復興の機能不全の原因もまた求めうる。

であれば、いかに復興は可能か、「祭」ではない枠組みを再考し、模索すべきだ。

それが「講」だ。
富士講・伊勢講、無尽講。それが分からなくとも無礼講やねずみ講は知っているだろう。ある縁と目的のもとに、人が定期的に集うことを指す。元々は、宗教的な集いでもあった。
ただし、それは表向き=建前としてでもあって、本音が別なところにある場合もある。
例えば、観音講は既婚者女子会だ。観音講のメンバーは結婚後、出産・子育てする年齢までの女性とされる場合も多い。毎月1回、講のメンバーの家や地域の寺に集い観音が描かれた掛け軸を目立つところに掛け、線香・蝋燭をともした上で食事をする。それは見てくれとしてはもちろん、宗教的な集いだ。ただ、そこで交わされた会話はどうだったか。例えば農漁村において、普段は自らの意見が通りにくい若い女性同士の悩みを共有したり、家計が苦しいが表沙汰にはしたくはないという人を支えたり。そして、そこから普段は生まれない新たな人の繋がりとアイディアが生まれていった。つまり、その集いには相互扶助と革新・創造の機能があった。
富士山を信仰し登山する、伊勢参りをする、という信仰上の大目的を建前に掲げつつ、定期的に集い資金を積み立て、一生に一度の長期旅行に送り出すという世俗的な本音を追求する。この両義性が講の、日常の静寂の中での成立可能性と、持続的な人々の調和と継承を支えている。
そして、この意味での日常性・持続性は「祭」が持ちにくい要素でもある。なぜなら祭は、非日常を断続的に演出し、あえて短期にエネルギーを結集して成立するからだ。生活の中に突如立ち現れた非日常性・断続性に賭けることが祭の根本にある。そして、その非日常性・断続性を生み出すためには、作為性・権威性が不可欠でもある。しかし、いまあらゆる作為性・権威性はよりフラットに変化しつつある。つまり、作為は嫌悪され、権威は解体される不可逆的な運動の中にある。
いま祭を支えてきたあらゆる作為性・権威性は時代にそぐわなくなっている。作為から、権威から距離をとり続けなければ、たちまちそれは反祭的祭とも形容すべき大衆のネガティブな情動や利害調整の効かなさによってキャンセルされる。

祭から講へ。
日常性・持続性の中でいかに革新・創造の場をつくり得るのか。
祭が成立しない時代に、無理に祭を成立させようとすることの歪が様々に生まれている。それでもなお、祭を立ち上げようとする挑戦、あるいは経路依存性から私たちは完全に逃れることは難しいだろうが、また別な枠組みを用意する試みに賭けることはできるだろう。
それが講だ。つまり、復興の再考の結果としての「講」がここにある。

ではなぜそこで「芸術」の講なのか。それが2つ目の前提となる、「芸術というメディアの有用さ」だ。
グーテンベルクが活版印刷技術を発明して500年以上。それは宗教改革、産業革命から現在の政治・教育の高度化にも影響を与え続けている。ただ、ここ数十年の急速なデジタル化の中で印刷物という媒体を介した情報の授受という手段は不可逆的に衰退しつつある。それは他方で、社会における情報の総量を爆発的に増やすと同時に、個別の情報の新陳代謝を急激に加速している。1ヶ月前の話題どころか、1週間前のニュースすら、もう新鮮味が無く思い出せない、という感覚を持つ人は少なく無かろう。
500年以上前の聖書は輝かしい星として参照され続けるだろうが、5分前のSNS投稿のほとんど、ほぼ全ては、二度と誰も見向きしないままに銀河系の奥に沈む。
情報の価値は保存されたり、相互扶助と革新・創造のために用いられたりすることで測られるよりも、多数の耳目を集め可処分時間を奪い取ることが可能かということで測られ、より過激に・極端に、単純化されたり動物的興奮を引き出したりすることに純化し続けている。

マスメディア・出版メディア同様に、市場も国家もこの傾向になびき続くことを留められないとするならば、経済や政治というメディア(媒介物)に、3.11からの復興というプロセスの中で残すべきものを残す役割を期待することはできない。
であれば何に期待できるのか。その1つが芸術だ、と本構想は捉える。

多くの組織・集団も、ある時代にどれだけ安泰に見えても、俯瞰的に見れば数10年のうちにほぼ全滅に近い状態に至る。人の寿命は長くても100年。現存のほとんどの国民国家だって数100年と消滅せずに残るかは、過去の実績を見れば、極めて怪しい。
グーテンベルクと私たちの時間軸、つまり500年、1000年というスケールに絶えうるメディアはなにか。例えばそれは、宗教であり、学術であり、そして芸術だ。過剰な情報とその新陳代謝の速さの中にアジールのように取り残された領域にそれはあるべきだ。

3.11からの復興というプロセスを残すという目的をもった縁の上に、定期的に集う。日常性・持続性の上に成り立つ革新・創造、あるいは相互扶助の場をつくる。
ここにこそ現代社会の先端があるはずだ。

Gallery

福島芸術講|
福島芸術講(開沼博・古川日出男・大森克己)

2024年1月より、福島県の相双地方12市町村で滞在制作された本作は、

社会学者の開沼博が、福島第一原子力発電所構内の音の風景を集め、大森克己による写真、そして古川日出男による文章を添えて2021年に発表したフィールドレコーディング作品『選別と解釈と饒舌さの共生』の続編と位置づけられている。

開沼によれば「本作は前作に倣い、フリードリヒ・キットラーの著書『グラモフォン・フィルム・タイプライター』を背景に置きつつ、さらにマーシャル・マクルーハンの著書『グーテンベルクの銀河系』をその根底に据えた」という。

マクルーハン曰く、文字が大量に複製される=活版印刷技術が世に広がるまでは、人々が生きていたのは、現代とは全く違った「聴覚優位」の世界だった。つまり、世界は聴こえるもので構成されているという前提があり、歌も文字も発声されてこそ、意味を持つものとされていた。それが、印刷技術が普及するにしたがって、世界は「視覚優位」になっていき、見えるもので構成されていく。人間の論理も感情もみな視覚に従属することとなり、文書で書かれ残されたものこそが正統と見做されるようになった。

さらにデジタル化したここ数十年で、この「視覚優位」は極限まで進み、スマートフォンの画面に映る文字、静止画、動画を凝視し、それが真実だ、それこそが世界の全てだ、という「勘違い」を前提とした人々の言動が生み出され、社会を動かしている。

そのような現代において、フィールドレコーディング、写真、文章をあえて改めて分離することでそこにある風景を提示する本作は、極限まで突き詰められ今後もさらに進む「視覚優位」の世界の中で「看過される」ものを「聴覚優位」の世界に再編しながらとらえ直すための「解剖」の作業とも位置づけられる。それぞれの音・写真・文章は、私たちの可処分時間を極限まで奪い合おうと精緻に編まれたデジタルコンテンツには回収されえないものばかりだ。

また一方で、本作は「極端な視覚優位」=複数のモニターを見続けバズるものや煽るものに飛びつく/かされる強迫性から逃れられない現代人に、あえて世界の原点のひとつを見直すきっかけをつくり「解体新書」のように、一覧化された別の世界像を示すかもしれない。

各作家の作品を並列に発表する本作が、世界の見え方、スケープ、そして手触りを描き直し、情報社会の中で進む「極度視覚優位化」の中に埋もれるものたちを救済するという点に、前作から今作まで貫かれた意義があると考える。

福島芸術講|プロデューサー|森彰一郎

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