得体の知れない文章をあたしは提供したい。だから「似ているところのあるものは一見ぜんぜん似ていない」という命題をここに書きつける。あたしたちはローマ字とひらがなは違うと思っている、けれどもローマ字もひらがなも表音文字だという点ではおんなじだ。しかし言いたいのはそういうことではない。ちゃんと目を注げばわかるのに誰もがちゃんとは目を注がないからわからないことをあたしは言おうとしている。たとえばローマ字の、O、と、Q、はどうしたって似ている。そしてひらがなの二文字、の、と、め、も似ている。なのに普段は、め、に、Q、を並べて考えることがあたしたちにはできない。

二〇二四年は一月七日や一月八日が楢葉町の小正月だった。小正月というのはむかし、一月十五日の満月の夜を中心に行なわれた正月行事のことで、どうして十五日の夜だったかというと旧暦では満月の夜はそのまま十五日に当たるからだ。月の満ち欠けが旧暦(広い意味での陰暦)を成り立たせていたから満月が八日の夜に現われたり二十四日の夜に出現したりはしなかったのだ。でも、いまは新暦で、だから小正月は一月十五日前後に固定されていたりはしない。一月七日にあたしたちは天神岬から北上していた。そこは常磐線の東で、木戸駅の北で、竜田駅の南で、太平洋岸まで一キロもない田んぼのエリアだった。稲が刈り取られて二カ月三カ月と経って、何もないはずの田んぼに、何かがあった。一軒の小屋が建っている。

竹が材料に使われている。あとはワラかな、と一瞬は思ったのだけれども、あとで聞いたら萱(カヤ)だった。萱もイネ科の植物で屋根を葺いたりするためにも用いる丈の高い草だ。それは三角形の小屋だったのだけれども、あとで聞いたら四角い小屋もあるらしい。それにしても、小屋? どうして小屋? 誰かいますか? 返事はない。誰もいない。しかし「いずれ誰かが集い出す」という雰囲気があった。いわき市出身のヒロシがこれはトリゴヤだと言って、もちろん「鳥小屋」の意味だった、しかし鳥類の飼育とは関係がなかった。むしろ害鳥から田畑を守るための小正月、あとは正月飾りを焚き上げるための小正月のその行事の、関連物……関連建築物だった。小屋には入り口があって、覗いてみたら確かに正月飾りが、新聞が、そうした類いがいっぱい収められていて、燃やされる瞬間を待っていた。一枚の新聞には二〇二四年一月一日に発生した能登半島地震の記事があって、やっぱり燃やされる瞬間を待っていた。あたしたちは立ち会わなければならない。なぜならば日本の小正月には、そういう火祭りの伝統はもちろん各地に現存するのだけれども、地域によっては「正月の訪問者」というものが現われる。ナマハゲがそうだしアマミハギがそうだ。カセドリとかカセギドリとかもそうだ。ホトホトもそうだ。そういうのは人間の姿をしていないことが多い。あたしたちは楢葉町にその小正月に現われたけれども、たぶん見るからに得体の知れない集団だった。つまりあたしたちは土地の人間の姿をしていない、すなわち広義の「正月の訪問者」なのだ。ここには一本の線が引かれている。同郷の人間は、どんな姿形をしていても、いわばOやQのバリエーションである。いっぽうで引かれた線を越えた世界からあたしたちは唐突に現われて、それはつまり、ひらがなの文字だったということだ。

(O)
(の)
(Q)
(め)

しかし並べてみたら、そんなにフォルムが違わない。線の向こう側から出現した人間もいっしょに「鳥小屋」が焼かれるのを目にできる、その炎にあたれる。それって境界線の消滅に違いない。おまけにそういう消滅の瞬間をカツミだったら本格的な撮影機材とかも使って写真に撮れる、それって「瞬間を永遠のように残すこと」に違いない。あたしたちは、これから火がつけられますよ、と教えられた二十分前には現場へ向かって、車の内側に控えて、待つ。視界の先には一軒の小屋が建っている。何もないはずの田んぼに、その、一軒の小屋は建っている。地域の関係者が現われて、あたしたちは立ち会う許可をもらう。撮影する許可だったり録音する許可だったり。十五分前に消防車が登場して、あたしたちから十メートルと離れていない場所に駐まり、そうなのだ、あああ、待機した。十分前、あたしたちは車の外に出た。準備されるのは、レコーダーの類い、カメラの類い、それから筆記具の類い。あたしは何かをノートブックに書いている。あたしはどんどん書いている。どんどんとどんどんとノートして考察している。

あたしは得体の知れない文章をそこに綴っている。どの年の正月も、一、それに先立った年々の正月に似ようと努める、同じように行事は執り行なわれようとする、二、つまりどの年の正月もただの「反復」でしかない、三、そうした事実や営為を踏まえて、しかし立ち現われるのは今年の「まっさらな、新しい正月」なのであって、そこには反復の痕跡はない、四、つまりどの年の正月も、それに先立った年々の正月のコピー(模写、模倣)ではない。つまり……つまりだ、今年の正月こそは、去年や一昨年や、十年前、百年前、そして来年や再来年、十年後、百年後につぎつぎと正月を「反復」させる、その大本なのだ。

(Oまたは、の)
(Qまたは、め)

時間が到来した。火は、つけられた。その一軒の三角形の小屋は下側から燃えはじめた。たちまち凄い炎となった。炎は強引に数えようとすれば一本と数えられる。しかし一軒の小屋を燃やして焼失させようとしている炎は地表に近い側でも分岐する、また宙でも分岐しているから、どうしたって一本とは数えられない。そして炎は、目に見える現象だと思い込みがちだけれども、耳で確認する現象でもあるのだ。パチパチと爆ぜる。それどころかバチバチバチと。そして炎は、触覚にも訴える現象であるのだ。熱をいちばんリアルに感じるのは皮膚だった。あああ地面が燃えている、と目が主張するのだけれども、やっぱり耳が、皮膚が同時に何かを言わんとしている。炎だ、炎はあるよと言うのだ。ボンッと音がしたら火の粉が舞う。竹のフレームがおしまいにも残っている、萱ははじめに失われた。しかし残っているといったら残っている、だから燃えている。ポッ、ポンと鳴ったのは竹? その高らかな響きは楢葉町の、どちら側だろう、山にぶつかって反響した。もっと大きなボッ、ボンの響きは天空にも反響した。まるで雲の腹のその底のところに衝突したみたいに。

一軒の小屋が残り火になる。
一時間ほどが経過している。
一本の炎というのはもはや存在しない。
一連の火が地表を這っている。

Q/
QQ/
QQQ/
OOOO/
めめめ/
めめ/
め/

あたしは「の、はどこに?」とノートする。

残り火では餅が焼かれる。それを食べることで(これからの)一年の無病息災を祈念するのだ。餅は、たぶん竹の棒のその先っぽに挟まれて、焼かれていた。それから網も用意されていた。網のうえでも餅を、それからイカを焼くのだ。開いたスルメが三枚用意されていた。あたしたちは得体の知れない人間たちとして境界のあちら側から現われたから、あたしたちはその餅や、イカや、お酒の類いもふるまわれて、あたしたちはひたすら感謝してご馳走になる。この「鳥小屋」は簡略化されたものだ、と聞いた。建て方は略式だ、専門家(木工の技能者)がいないので複雑なのは建てられない、それでも「鳥小屋」は数年前から復活した、と聞いた。それは楢葉町に小正月が帰ってきたということで、楢葉町に「正月が戻ってきた」とも言い換えられる。ここで幾つかの事実をこの異様なあたしの文章の内側に記せる。いつから楢葉町の「鳥小屋」は始まったのか? その歴史のスタート地点は? たぶん明確な、つぶさな記録はない。その民俗行事は「いつからか」始まっていたのだ。しかし、その民俗行事は「東日本大震災の後に」中断した。そして歳月が経って、その「中断の後に」再開した。以前、ここで人びとは火を囲んでいた。いま、というのは今年、やはりここで人びとは火を囲んでいる。あたしたちまで内包して。そんな光景をカツミが写真に撮っている。ただのコピーではない今年(のこの正月)というものが半永久化する。

言っていることわかる?
あたしの言っていることわかる?

あたしたちは九日後に広野町にいる。そこには福島県立ふたば未来学園中学校と高等学校があって、高等学校のほうには部活動の一環として運営されているカフェがある。そのカフェには学校関係者いがいも足を運べる。それはなんだか凄いことだ。生徒でも教職員でも学校と取引をしている企業の人間でもないのに、その学校の敷地に入って、お茶を飲める、ふるまわれる(ただし対価は要る)というのは、その未来学園のある意味での「正月の訪問者」になるのに等しい。いや、それはぜんぜん等しいとは言えない、のかもしれないけれども、ひらがな文字の、め、とローマ字の、Q、と同じようには通じる点がある。そのカフェにいて、ロビーのような空間を眺める、するとロビーのようなその空間に流されている学校の紹介の映像にヒロシが映っている。そういう意味ではあたしたちは得体が知れない存在ではあんまりないのかもしれない。しかし考える、もっともっと考える、たとえば学校には中学一年生がいる。そして「新入生」に相当するこの中学一年生は、一年前にもいた。きっと一年後にもいる。五年前にもいた。きっと五年後にもいるだろう。しかし今年の一年生たちは、去年の一年生のコピーだと言えるか? そんなわけはないのだ。今年の一年生たちは、本当に「まっさらな、新しい生徒」たちなのであって、祝福されるに足る。つまり学校というものは、そこに誰かが入学して、卒業する、そのサイクルを繰り返すのだけれども、決して単なる「反復」をすることはない。

学校という装置は、正月という時季と、おなじだ。

子供たちの目が輝いている。子供たちが自分で自分を変える能力を磨いている。正月と学校は似ている。

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© Hideo Furukawa

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